全く以て久しぶりの「鎌怨」です。2年半ぶりです。
実は、ここ1ヶ月位、咳が止まらくて、せきこえのどの浅田飴でも治らない。
困っているうち、あ、そうだ、あそこに行こう、ポム(膝を叩く音)、と思いついたので、
定休日にして好天な本日、行って来ました。
「畠山重保の墓」 に!!
何故、咳に重保なのかは後々として、畠山と言えば重忠、と思い出す方も多いかと存じます。
重保さんのお父さんである重忠さんは、頼朝挙兵時には平氏についていましたが、後に臣従。
武運の誉れ高く、清廉潔白なお人柄で「坂東武士の鏡」と称されたお人です。
なにより、私TOみたいな鎌倉フリークにとっては、「いいところでちょこちょこ顔を出す」ので親しみを
感じるお方です。
まず、石橋山の時は、大雨で頼朝と合流できず引き返して来た三浦と邂逅し、合戦。
双方痛み分けるも、三浦の要塞・衣笠城を攻めて三浦義明最期のドラマを演出しつつ討ち取った。
この時重忠17歳の若大将。
その後、源氏の旗下にあった先祖が貰った「源氏の白旗」を持って帰参して頼朝を喜ばせ、
先陣切って鎌倉入り。
養和元年鶴岡八幡宮社殿改築上棟式では、義経屈辱の馬曵きに付き合い、
義仲と戦った宇治川では溺れかかった味方を岸に放り投げて助け、
三条河原で一騎当千&絶世の美女・巴御前と一騎打ちして鎧袖を引き千切り、
平家討伐の鵯越では愛馬を背負って断崖を駆け下り、
静御前が鶴岡八幡宮で舞った折には伴奏の銅拍子を打つ。
色々あって、「謀反の疑い有り」との梶原景時の讒言(得意技ですな)にあったが、
色々あって申し開きもせずに許されるどころか頼朝から褒美まで貰う。
奥州攻めでは先陣を努めて奥州藤原氏を滅ぼし、捕らえられた泰衡郎党の由利八郎は
最初に取り調べられた梶原景時の傲岸不遜っぷりには立腹して全く口を割らなかったが、
替わった重忠の、礼を尽くした態度には感服して、問答に素直に応じたとか。
―-ウソかホントかは置いといて、智勇合わせ持ちつつイメージがあって数ある鎌倉御家人の中でも、
畠山重忠は、気は優しくて力持ち的いい人キャラになっているのだと思います。
(↓)重忠っつたら、やっぱ、これだよなぁ…。
お父さんの話が長くなりましたが、重保さんも父さん似で実直かつ勇猛だったらしい。
そんな重保さんが平賀朝雅という人と酒の席で諍った。
周りのとりなしで一度は収まったのに、根に持った朝雅さんは、「あいつひどいんだよ」と
嫁のお母さんに泣きついたのですが、その嫁のお母さんと言うのがよりによって、あの!!牧の方。
(日野富子がどうとか言うけど、悪妻っつたらむしろ、この女だろう。)
牧の方は夫である北条時政に、「畠山父子が謀叛を企てとります」と讒言します。
時政は、「え!?そうなの!?」とばかりに、畠山潰しに打って出ようかなと考えたりします。
口実さえあれば、とっとと討ってしまいたい相手、それが畠山だったからです。
時は三代将軍実朝の世。
鎌倉殿の嫁&現将軍のママの実家とは言え、所詮は伊豆の豪族風情の北条氏にとっては、
武蔵国に絶大な勢力を持つ名門、しかも、頼朝が死に際して「我が子孫を守護するよう」遺言を受けた
程に信頼を置かれた畠山は目の上のたんこぶ以上の存在であります。
それまで、讒言ニストで人気はないが、頼朝の忠臣で御家人を統括する立場だった梶原景時も
色々あって滅ぼされ、頼朝の乳母一族をいい事に二代将軍頼家を擁立してブイブイ言わせてた比企氏も
滅ぼし、「有力御家人実権争奪レース」の一回戦・二回戦を勝ち抜いた北条氏のドン・時政としては、
このチャンスを見逃せる筈もございません。
それでも時政は、やっぱりいくらんなでもあの畠山を一方的に攻めるのもどうなのかと思ったらしく、
一応、息子の義時や時房に「謀叛のかどで重忠と重保を討ちたいんやが、どやろか?」と相談します。
しかし、息子たちからは、「あの重忠さんが謀反などする訳がない」と、(当然ながら)反対されます。
重忠さんの奥さんは、叔母さん(政子の妹)だし。義時にとって、重忠さんは友人だし。
それでもまた嫁の家の方からなんやかや言われて、たぶん半分やむ無く、時政は兵を挙げます。
時は元久2年6月22日。早朝から鎌倉は謀反人の討伐で騒然となる。
重保も、おっとりがたなで従者3人とともに由比ガ浜へ駆けつけたが、自らを取り囲む御家人衆を
見て事態を悟った。「謀反人は儂か!!」。
重保は武勇で鳴る畠山の名を汚すまいぞと奮戦するも、多勢に無勢。
戦いの最中に持病の喘息の発作が出た事もあり、戦場の露と消える。
父・重忠も、鎌倉に異変有りとの知らせを受け、本拠の菅谷館(今の埼玉県比企郡)から出立するも、
二俣川で義時率いる幕府軍が待ち構えていた。そこで初めて自らが謀反人とされていること、
同じ濡れ衣を着せらたまま息子重保も討ち死にした事を知った。
その時、重忠の戦力はせいぜいたぶん100騎かそこら。
しかし、そこで退く重忠である筈もない。
潔く戦い散るべし。それこそ武士の本懐。と、数千の大軍を迎え撃つ覚悟を決めた。
そこに先陣切って突入してくるのは、旧友である安達景盛。
(↓)ガンバレ!! 重忠!!
「おお、景盛!!一番槍とは見事なり!!存分に戦おうぞ!!」と言ったか言わんか知らんが、
たぶん、そんくらいの事は言ってるはず。
重忠は寡兵であるにも拘らず4時間に及んで戦うも、終には愛甲季隆放つ矢に討たれ、
首級を取られた…。
鎌倉に戻った義時は、「重忠の兵は出払っており小勢で、謀反は虚報であり、重忠は無罪です。
重忠の首を見るには涙を禁じえず…大変お気の毒で…」と(たぶん涙ながらに)報告すると、
聞いた時政は黙って引き下がった…。
その後、この一件をきっかけに時政は我が子である政子・義時によって、牧の方とともに鎌倉を
追われる事になるのですが、それはまた別の話。
―と、前置きが長くなりましたが、重保さんが戦いの最中、持病の喘息が出たため討ち死にした…
との由来で、重保さんのお墓とされる宝篋印塔は、咳に苦しむ人が願をかけると治ると言い伝えられて
いるのです。
そんな訳で、咳の止まらん私TOもここにやって来たのです。
由比ガ浜から来て最初の鳥居、一の鳥居の脇に重保さんのお墓はあります。
一礼して拝み、どうにかこの咳をお鎮め下さいと。
今でも、旧い鎌倉の人は「六郎様」と、この石造宝篋印塔を崇め、
ご覧のように、供えられるお花が絶えません。
願をかける時には竹筒の茶を注いだと云われ、往時は墓の脇に「六郎茶屋」(六郎とは重保の通称)
と言う茶屋もあったそうな。
私TOも、持ってたペットボトルのお茶をかけようかとも思いましたが、
いくらなんでも飲みかけでは失礼だろうと、遠慮しました。
(↓)巨きな木が、まるで風雨から守るように、重保さんのお墓を覆っております。
ゴホン、ゴホン。
重保さんのお墓を後にした私TOの咳は止まず。
おかしいなぁ、何でだろ?と訝しりつつ、今日2箱目のタバコの封を切る私TOでした。