この、佐助稲荷の近くに、葛原岡神社があります。
この神社は、明治20年の創建とのことで、鎌倉的には新参者と言えるでしょうか。
鎌倉末期に後醍醐天皇の側近として倒幕計画に参加し、
色々あってこの地で処刑された日野俊基が祀られております。
ここはここで鎌怨的には別個採り上げたい場所なので、詳しくはその時に譲ります。
葛原岡神社の場所には、鎌倉時代には御霊社があり、それが後に深沢に移されたのだそうで。
先日記事にした、私TOのご先祖様の親戚である梶原”ゲジゲジ”景時さんのお墓の脇にある
御霊社がそれ。
「ゲジゲジって言うな!!」
つまり、頼朝さんが鎌倉殿になった頃は、佐助界隈はゲジ時いや景時さんの地であり、
”隠れ里”の人々は、この地の御霊社に奉じていたそうです。
ゲジ原、いや梶原配下、鎌倉の裏の裏まで知り尽くす、”隠れ里”の人々は、頼朝さんにとっては
またとない情報源であり、彼らを間者と言うか、梅干と言うか(つまりスッパイ、いや、スパイ)的に
使役したのではなかろうかと思われるフシもあります。
という事で、頼朝さんが佐助の地を訪ねる事も多かった(御所から馬でたぶん10分かそこらだから、
訪ねると言う程の事でもないが…)のでしょうが、ここでまた頼朝さんの悪い癖が出たようです。
佐助ガ谷の木彫師の娘っこに、またぞろ手を付けちゃったらしいんですね~。
頼朝さんにとっては、一回だけのお遊びのつもりが、一発必中!!
その娘っこがお子を身篭ったのでさあ大変。
こんな事が政子さんに知れたらおおごとです!!
亭主の浮気相手が匿われていた家を急襲して打ち壊す位の事は、平気でやるお方ですから。
谷ごと焼き討ちにあってもおかしくも何ともない。
戦々恐々とする頼朝さんを、半ばユスったのが御霊神社の巫女さんとかだったのでは?(TO史観。)
それで、豪華口封じの品を賜った。
その実、裏ではゲジ時さんが糸引いてたりして。
今も昔も、上司の弱みを握るのが出世と身の安泰を図る術ですから…。
と言う訳で、鎌倉系御霊社の胴元、いや元締め、いやまあ、何でもいいや、
その、御霊神社へ向かう取材班。いつの間にか取材班。ひとりぼっちの取材班。
御霊神社と言えば、鎌倉権五郎景政。
梶原氏や大庭氏の始祖であり、我がご先祖ofご先祖!! でございます。
さて、江ノ電は長谷の駅からポツポツ歩く取材班。
いいですね~。
もう、30年もこんな、このあたりの光景を見てますが、相変わらずいい。
寺社仏閣とまた異なる、「今の鎌倉」の魅力を見せてくれるのが、長谷坂の下極楽寺界隈です。
御霊神社は、今や江ノ電の線路と共に有ります。
踏切渡ればすぐ鳥居。
境内に入ると、これまた空気が変わります。
で、この御霊神社の例大祭(現在は権五郎さんの命日、9月18日に行われる)に、
面掛行列が出ます。
猿田彦を先頭に、異形の面々が練り歩くのですが、この祭り、別名を「はらみっと祭」と称します。
はらみっと…とは、孕み人つまり妊婦を指し、行列の最後尾に、産婆を従えた妊婦おかめが歩くのです。
これは、一見豊穣祈願っぽく見えますが、実は、身内の娘っこが頼朝さんに孕まされた事を
伝える”隠れ里”の伝統行事であり、頼朝さんは詫び入れと同時に政子さんに対する口封じもあって、
佐助ガ谷の”隠れ里”の人々に年一度の無礼講を許したのがそもそもの由来だと考えられなくも
ないとの事です。
浮気の口止めの代償としては、頼朝さんにとって高かったのか安かったのか。
生涯、浮気なんてただの一回もした事のない私TOには、推し量りかねますです。
石橋山からの逃避行で山で暮らす人々に助けられて以来、頼朝さんは彼らの価値を認め利用していた
みたいで。土肥実平さんは、その手の人達と太いパイプがあり、実平さんとゲジさんはマブダチだし。
そう言ったラインで、情報収集はもとより、鎌倉独自の文化の創成(鎌倉彫なんかはその代表例)
に活用していた(TO史観)。
山の民には独自のネットワークがあったらしく、今の神奈川県エリアで言うと、その総元締が足柄を
拠点とする、風間(風魔)一族だったとか。
風魔の名が世に出るのは、後北条氏の時代ですが。
そんなことで、浮気すると隠すのに苦労するので、既婚男性諸氏はくれぐれもお気を付け召されい。
と言うのが、今回の〆です。